涼しげな風が頬を撫でる。
粉砂糖をちりばめたような夜空は、それでも自然の造形物を隅々まで照らせるほどの明るさはなく、黒々と聳え立つ崖の麓は夜よりも深い闇に覆われている。
ぼんやりと浮かんだ白い月。人工的な明かりは一切ない。
この―――道城以外には。

『―――潤。そろそろ部屋に入らないと、冷えるぞ』

後ろから聞こえてきた声に、潤は振り返って「もうすこしだけ」と軽く微笑んだ。
その何かを喜んでいるような、嬉しそうな声音に、白竜は首を傾げる。

『何かあったのか?』
「うん…まあ、ちょっとだけ、ね」

とはいえ、白竜にも何となく予想がついていた。
何と言っても今日は、

『…君の弟が、初めて、友達を連れてきたからな』

色々なことがあった。
痛みも苦しみも、心が千切れてしまいそうなことが、何度も。
それでもそれらを全て乗り越えて―――最愛の弟に仲間が出来た。友達が、出来た。
本当は誰よりも、彼の心の闇が光に照らされることを望んでいた潤にとって、これほど嬉しいことはないのだ。

「うん、それもあるわ……でも」
『それだけじゃないのか?』
「それだけじゃないのよ」

くすりと悪戯っぽく潤が笑う。
瞳は何処までも柔らかい。
こうやって、時折ちらりと覗く彼女の素顔を、白竜は密かに気に入っている。

潤が再び目線を夜空へ移した。

「――――おんなのこ」
『え?』
「女の子がね、いるんですって。今、蓮のところに」

その余りにも意外な言葉に―――白竜の目が点になった。





―――ねえ蓮。今貴方の所に、女の子が一人いるんですってね。

発端はその一言だった。
食事会のあと、さっさと帰ろうとする蓮を慌てて引きとめ、それぞれが休むために部屋に引き込んだ頃。
旅立ちの身支度を既に済ませ、武器の手入れをしている弟の部屋を潤は訪ねたのだった。
潤としては、つとめて普通に、当たり障りなく尋ねたつもりだったのに―――

尋ねられた当人は、ぴしりと音さえさせて、固まってしまった。

「…蓮?」

刃物を持ったままは危ないわよ、と声をかけようとして。

「………姉さん」
「なあに?」
「その話。どこから。誰に」

動揺しすぎて最早簡潔な単語のみを発する弟に、内心潤は笑いをこらえつつ、

「葉くんからよ」

「あ、あ、あああああの馬鹿…!」
「あっこら、駄目! 待ちなさい蓮、武器をとりあえずしまいなさい!」

磨いていた馬孫刀を持ったまま部屋を出て行こうとする蓮を、慌てて潤は引き止めた。
流石に蓮も姉を振り払うことは出来ないのか、渋々それに従う。
それでも、奥に秘めた憤怒の形相は変わらない。

(これは…あとで血を見るわね)

潤はそっと心の中で葉に謝った。



―――――でも、



(あの子がこんなに動揺するなんて)



「どんな子なの?」
「……姉さんの耳に入れる程の事ではありません」
「いいじゃない。興味あるわ、私」
「………」

ジッと真っ直ぐに蓮を見つめ、潤は微笑みながら言った。
予想通り、しばし気圧されたような躊躇いの沈黙が降りる。
そして、数分が経った後―――ようやく蓮がぼそぼそと口を割った。

「………弱い奴です」
「弱い?」

「ぼんやりして危なっかしい。すぐに泣きそうになるし、ふらふらして目を離すとどこへ行くかわからない、誰かが守ってやらなくては生きてもいけないような、面倒臭い、子供みたいに弱い、………って何故笑っているんですか姉さん!」






「だってね、初めて見たんだもの、あの子が顔を真っ赤にしてる所なんて」

そのときの様子を思い出したのか、くすくすと潤が声を上げて笑った。
それを聞いている白竜には、あの蓮が、そんな風にして照れて動揺している姿など想像もつかない。

やがてひとしきり笑い終えた後、ふと潤は口を閉じ、空の向こう―――地平線よりももっと遥か遠くを見つめた。
何となく、その場にしんと静寂が満ちる。

『……大丈夫か?』

白竜がそっと声をかける。

「…大丈夫。うん、大丈夫よ」

背後にきた白竜の気配に気付いて、そのままぽすりと潤は白竜に寄りかかった。
それでも白竜からは、潤の表情が暗くて窺えない。

「…ただね」

ぽつりと、
呟きが夜に溶けていく。

「うれしかったの」

静かに、声が、とけていく。

「すごく、うれしかったのよ。――――あの子が、誰かを、あんな風に」



無愛想な声も
面倒臭そうな台詞も

話している時、ふと覗く優しい眸も

少女のことを語りながら、ほんの少しそわそわと落ち着かなくなった弟の様子に、あんなにも早く日本へ帰りたがっていた彼の本心を垣間見た。
きっと本人は気付いていない。
指摘すれば、あの素直でない彼のこと、すぐさま否定するに決まっている。



「私たちが言える台詞じゃないのかもしれない。あの子を、あの子を取り巻く環境を作ったのは私たちだから。…でもね」

―――――ホッとしたの

少しだけ泣きそうな、消え入りそうな声を、白竜は確かに聞いた。

「誰かを愛せる子で、嬉しい。誰かを守りたいと思える子で―――安心したの」

そうしてまたひとつ、彼の凍った心がとけていくのなら。
人間らしい、あたたかな感情で満ちていくのなら。

「―――でも、不思議ね」
『?』
「こんなに嬉しいのに…――――ほんとは少しだけ、さみしいのよ」

急に遠くに行ってしまうようで。

「私ったら我が儘な女。そんなにあの子に依存していたつもりもないのに」

そうやって苦笑をもらす潤を、しばし見つめて。
やがて白竜もふっと微笑んだ。

たとえどんなに大人びた顔をしていても
彼らはやはり、年相応の姉弟なのだ。

『…それが成長するということだろう。蓮も、君も』

一瞬びっくりしたように潤が白竜を見上げた。
けれどすぐに―――照れ臭そうに笑う。

「……そうかもね」

白竜も、話を聞いているうちにその少女に興味が湧いた。
あの道蓮に、彼らしかぬ表情をさせてしまうという、凄い少女に。
潤の問いかけに、素直じゃない答えをさせた彼女に。
素直ではない、でもそれが―――あの道蓮の、素顔なのだから。

「さてと」

ひょい、と潤が白竜から離れた。

「そうと決まれば、さっそく明日から準備しなくちゃ」
『…何をだ?』

その打って変わってうきうきとした表情に、白竜は尋ねる。
何となく、嫌な予感がした。
案の定、悪戯を計画するような、確信犯的な笑みを湛えて潤が答える。

「私は私なりの方法で、彼女にお近づきになろうと思って」
『…どんな』
「聞いたらね、蓮ったらもう、自分の服を彼女にあげてるんですって。まったく男の子ったら……流石にそれは可哀想でしょう。だから幾つか見繕って日本に送るの」
『だがその子がどんな子かもまだ詳しくは…』
「大丈夫よ。全部蓮や葉くんたちからもリサーチ済みだから」

茶目っ気たっぷりに胸を張る彼女を、正直白竜は初めて見た。
そうして浮き足立った様子の背中を見つめながら。

白竜は思う。
きっと先ほどの話―――あれだけでは収まらず、恐らくあの後、蓮は姉から根掘り葉掘り訊かれたのだろう。尋ねられたら最後、姉には弱い彼のこと、口を割らざるを得まい。そしてその姉は―――たぶん、おそらく、きっと、十二分にそのことを把握しているに違いないのだ。
白竜は思う。
きっと今頃、その彼は恥ずかしさと居たたまれなさで、燃え尽きた灰のように真っ白になっているだろう、と。

「白竜。明日、北京へ買い物に行きましょう」
『…ああ』

ひっそりと蓮に同情しながら。
白竜は、思う。

(いつの時代も…女は強いんだな)

「未来の妹になるかもしれない子だもの、思い切り可愛がってあげなくちゃ」

張り切っている潤を見ながら、白竜はそっと息をつく。
そしてその年よりじみた仕草に自分で気付き、俺も年を食ったなあとしみじみ夜空を見上げた。










――――――――それから数日後。

日本にいる蓮との元に、巨大な段ボール箱が幾つも届くのは、また別の話。